神園正美の透明水彩画(15) 試練と情熱が織り交ざった人生

霧島連山

こんにちは

今回は父の人生について少し触れたいと思います。

親戚に会うと、決まって聞かされていたことがあります。

父は幼い頃から絵の才能に恵まれ、学校の先生や周囲の方々に褒められることが多かったと

そして昭和初期の田舎で貧困の中、独学で絵を描き続けていたと・・・

不慮の事故〜左腕を失う

故郷の風景

父の家庭は幼い頃に父親を亡くし、非常に貧しかったため、家計を支えるべく早くから瓦工場で働いていたそうです。

ある日、工場のローラーに左手を挟まれ、命に関わるからと、当時の限られた医療環境の中で左腕を切断することになりました。

痛みと恐怖で気絶し、目覚めたときには母親が傍らで泣き続けていたそうです。

その母親の姿を見て、親不孝をしてしまった・・・という話をよくしていました。

転機

韓国岳 霧島連山

左腕を失ったことで、そこからは職を探すのにとても苦労したのだそうです。

そんな中、父の技術を評価し気にかけてくださっていた方から、ポスターがなかった時代の映画館の絵看板を描く仕事を紹介され、それが新たな道を開くきっかけとなりました。

晩年、その恩人の方の訃報に接した際には、老いてやせ細った父が、背中を丸め涙を流しながら泣く姿が今でもまぶたに焼きついています。

苦しみの中、手を差し伸べてくださったその方に、感謝という一言では片付けられない思いがあったのではないでしょうか・・・

努力、工夫、不可能はない

その後、独立した父は片腕ながらも、器用に材料を切り、組み立て、そこに文字を書き、取り付けるまで、あらゆる仕事を一人でこなしていました。

ときには不安定な足場を組んで広い壁面に直接文字を書いたり、絵を描いたりしていた後ろ姿をよく覚えています。

その姿勢や努力を当時は当たり前のことだと思っていましたが、今となって驚きを感じています。

その頃の父は、周囲に片腕であることを忘れさせるほど多くのことをやり遂げていました。

幸せな晩年

私が成人した頃から、父は本格的に絵を描くことへ専念し始めました。

透明水彩画家の雨田正先生のもとで学び、やがて自分の絵画教室を開きました。

父の作品を気に入ってくださった生徒さんたちが集まり、その生徒さんたちと共に過ごす日々を楽しんでいました。

まとめ

晩年、自分の好きな絵を描き続け、多くの人々に囲まれ、幸せな時間を過ごしていました。

父の人生を振り返ると、その苦難と努力と歓びが、作品に深く刻まれていることを感じます。

最後までお読みいただきありがとうございました

管理人 娘 みほ

※お目汚しになりますが、作品に孫の書いた影文字で「MASAMIスケール」(縦横2×8センチ)をのせています。作品の大きさの目安になれば幸いです。

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